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17 Again (セブンティーン・アゲイン) (2009年) [洋画]

監督:バー・スティアーズ
出演:ザック・エフロン :(マイク)、マシュー・ペリー (マイク)、レスリー・マン(スカーレット)、アリソン・ミラー(スカーレット)、トーマス・レノン(ネッド)、ミシェル・トラクテンバーグ(マギー)、スターリング・ナイト(アレックス)、メロラ・ハーディン(ジェーン・マスターソン校長)

高校時代に子供ができちゃって結婚した37歳のさえない男が、人生絶頂とも思える17歳のころに戻り、人生をやり直す、というお話。しかし、主人公は、こうなったのは人生をやり直すためではなく、自分の子供たちを守り妻の愛を取り戻すことが目的だったのではないかと思うようになっていく。

子供ができちゃったのが20年前で、なんでその子が高校生なんだよと言いたくなるのだが、まあ、そんなことはどうでもよくて(そもそも37歳のおやじが中身そのまま肉体だけ17歳に戻るということからしてわけがわからないのだから)、おとぎ話(fairy tale)と思って見ればいい。主人公は、最初人生のやり直しが目的だと思うのだが、そのうち、自分がいかに夫として父親としてダメだったのかに気づく。しかし、それもあまりうまくいかず、ラスト近くで人生のやり直しのチャンスが訪れる。主人公はかつて自分がした判断と異なる決断をして、やり直そうとするのか?そこがクライマックスだ。

そして、なるほどそうか、人間の本質は年をとっても変わらないのだな、でもそれでよかったのだよなと思わせられる。結局は、昔に戻りたいとか、あのときこうしていれば・・・、なんて考える必要はまったくなくて、むしろそう考えていたことが今の人生を悪くしていたということに気づく。自分の判断については自信を持って肯定し、将来に向かって生きて行けばいいのだよ、と教えてくれているんだ。

構成やシーンの使い方が上手で、(自分としてはいらないと思うけど)おまけのサイドストーリーもついていて、いい映画だったと思う。今まで全然知らなかったけど、主演のザック・エフロンはすごい人気者だったんだ。でも、10代のスカーレット役のアリソン・ミラーはかわいらしくてよかった(最初しか出ないけど)。

映画のポスターの標語、Who says you're only young once?というのもなかなか含蓄がある。直訳すれば「若いのは一度きりと誰が言ってんだ?」だけど、若さというのは年齢のことじゃない、ということだろう。

Samuel UlmanのHow to Stay Youngという詩の冒頭に、Youth is not a time of life; it is a state of mind.という一節があることを思いだした。

(2009年8月19日)

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Gran Torino (2008年) [洋画]

監督:クリント・イーストウッド
出演:クリント・イーストウッド(ウォルト・コワルスキー)、ビー・ヴァン(タオ・ロー)、アーニー・ハー(スー・ロー)

6月25日、出張先からバンクーバーに戻ってくる飛行機で。

クリント・イーストウッドが劇中で死ぬ映画というのは初めて観たが、また前にあったのかどうかも知らないが、そのような映画を作ること自体が、(偉そうだが)彼が扱っているテーマが人生そのものや死というものに収束してきていることを示しているのかなと思った。そして、その彼がいわばバトンタッチしようとした相手がアジア人であったことも一種の驚きだった。また、うまく説明できないのだが、カメラワークが安定していて、人間に対する優しい目が感じられた。今は思い出せないが、とても優しいいいカットがあったのだ。青木新門さんのいう「光」が見えている感じ。

字幕もなかったから会話の細かいところでわからなかったことも多々あり、特に若い神父とのやりとりがよくわからなかった。どうも神父には何かの役割を与えていたようなのだが、それがわからない。実は大事なポイントなのかもしれず、だから映画の見方が一面的になっているかもしれない。

やたらと銃を持ち出すところや、クリント・イーストウッドならではの強さだよね、とか、あのギャングがいなくなればタオとスーの平安は守れないと言ったけど他にもギャングはいるんじゃないの?といった突っ込みはできるだろうけれども、彼が問うているのは人が生きることの意味だと考えれば、そんなことは気にならない。生きるということは、まず自分が一生懸命生きることだけど、誰かにバトンタッチしていくことも大事なのだ。この映画はクリント・イーストウッドの遺言なんじゃないかと思った。いい映画に出会えてよかった。

日本語ウェブサイトのキャッチフレーズは「俺は迷っていた、人生の締めくくり方を。少年は知らなかった、人生の始め方を。」となっており、英語のサイトには見当たらないから、これは日本で考えられたのではないだろうか。(また偉そうだが)実にうまいもので、さすが日本人と思った。

(2009年7月1日)

おくりびと Departures (2008年) [邦画]

監督:滝田洋二郎
脚本:小山薫堂
出演:本木雅弘(小林大悟)、広末涼子(小林美香)、山崎努(社長)、余貴美子(事務員)、吉行和子(鶴の湯のおばちゃん、山下ツヤ子)、笹野高史(鶴の湯の常連客、平田正吉)

2009年6月13日(土)、CambieのPark Theatreに19:00からの回を家族5人で観に行く。家族5人で映画を観るというのは初めてのことで、うちの子供らも大きくなったもんだという別の感想も持つ。彼らはこの映画を観てどう思っただろうか。自分の家族と映画の中の家族を重ね合わせて観ただろうか。

全体として、最近観た映画の中では文句なしに一番のいい映画だった。冗長さや無駄なカットのないよく練られた構成だし、本木と広末の夫婦像はほほえましく自分たちを投影しながら観ることができた。山崎努は相変わらず芸達者だし、笹野高史はさすがだ。そして、生と死という永遠のテーマに正面から向き合って、前向きに終わっている。ど真ん中に、力のこもった非常にいいストレートが来た。生きている者は生きればいいのだ!いつかは必ず順番が回ってくるのだから、「また会いましょう」といって送り出せばいいのだ。

もっとも、こまかいところで気になるところがないわけではない。いずれも映画の構成の問題で、第一は美香の人物設定。終わった後の家族の会話でも、第一に集中したのが広末涼子の演技ないし扱い方で、自分の第一印象も「自分だったら広末は使わない」というものだった。最初に広末ありきだったという商業主義のにおいを感じなくもないが、しばらく経って思うのは、そもそも脚本の段階で美香の人物像が明確に描き切れていないのではないかということだ。夫を支えるけなげな妻(でもキャリアウーマン)、夫を理解できない妻、最後は理解する妻、そして夫婦の成長・・・、あれだけあいまいだと広末も咀嚼しきれなかったのではないだろうか。人間の性格を明確に言い切ることなどできないといえばそうだが、この映画の中での美香の役割がいかにも中途半端な気がした。とくに後半から終わりにかけては、広末の「どう演じたものか」という悩みみたいなものが画面からも感じられ、観ているほうも割り切れなさが残った。製作者が意図して考えさせているというよりは、製作者自体迷ってるんじゃない?という気がした。

第二はエンディング。これは第一の点以上に残念だった。死と生というテーマを扱いつつ、最後は親子になるのねと思っていたら、夫婦の話になって、ブラックアウトしたと思ったら、あれ、エンドロールが出てきちゃった・・。余韻が残る終わらせ方、後のことは観客一人ひとりにゆだねるということかもしれないが、きちんと締めていないから、結局親子だったのか夫婦だったのか?あの終わり方は夫婦だったよな、などと余計なことを考えてしまう。もっとストレートに死と向き合うということにしてもよかったのかもしれない。だが、そうすると広末の出番がなくなるし、ひねりもなくなってしまったかもしれない。それも計算ずくかとも思えるが、製作者自体苦悩の末に時間切れしょうがないということだったという説に賛成。

と、ちょっと辛口のことを書いてしまったが、個人的な好みの問題(人工的なよく練られたプロットを好む性質)もあり、いずれにせよこの映画が最近観た中では一番の秀作であることは疑いない。もう一度観てみたら上に書いた問題点についてもやられたと思うようなことが出てくるかもしれない。

昨年観た「武士の一分」がガラガラだったので、これもそうではないかと予想したが、観客は意外にも多く、しかも、ほとんどが英語を話すカナダ人と見えた。カナダ人の感想を聞きたい。

(2009年6月16日)
元記事
http://matt-m.blog.so-net.ne.jp/2009-06-16-1

西の魔女が死んだ(2008年) [邦画]

原作:梨木香歩
監督:長崎俊一
出演:サチ・パーカー(おばあちゃん)、高橋真悠(まい)、りょう(ママ)、大森南朋(パパ)、木村祐一(ゲンジ)、高橋克実(郵便屋さん)

 6月29日、雨の日曜日に新宿武蔵野館にて。立ち見も出る盛況でしたが・・。

 この映画のテーマは、成長、あるいは大人になることということだろう。ただ、残念なことに映画自体にはどことなく物足りなさを感じた。後で原作をよんでみてわかったのだが、原作自体淡々と書かれたもので、それをあまりにも忠実になぞっていたせいではなかったか。また、どういうわけか俳優さんたちがほとんどみんな棒読みな感じで、いま一つ映画の世界に入って行けなかった。そして原作には出てこない高橋克実の郵便屋さんは不思議なものでビビッドなのだ。

 ということで、仮説なのだが、原作が小説として作られたものを映画化することは、おそらく原作のできが良い場合にはとりわけ、難しいのではないか。原作がいいとどうしても原作に忠実になろうとするが、原作に引っ張られ過ぎてしまうと映画としてはうまくいかない。結局、映画と小説は表現の手段が異なっており、本質的に小説は映画よりも圧倒的に情報量が多い。したがって、最大でも2時間ぐらいしかない映画の中でそれを全部表現するのは本来無理なのだ。だから、映画を作るときにはテーマもエピソードも絞りに絞る必要がある。本質に向かって考えに考え抜くということが映画では小説以上に必要なのではないかな。

 内容のほうでは、テーマ自体はいいのだけど、主人公が女の子でもあったりして、40歳を過ぎたおじさん向きの映画ではなかったかもしれない。このようなテーマだったら、おじさんには、男の子も出てくる夜のピクニック">夜のピクニックのほうが良かったな。というのが少々だらしないことながら、このおっさんの感想でした。

(2008年10月16日)

歩いても歩いても Still Walking (2008年) [邦画]

監督、原作、脚本、編集:是枝裕和
出演:阿部寛(横山良多)、夏川結衣(良多の妻、ゆかり)、YOU(姉、ちなみ)、高橋和也(ちなみの夫、信夫)、田中祥平(横山あつし)、寺島進(寿司屋の息子)、樹木希林(母、横山とし子)、原田芳雄(父、横山恭平)

 10月1日(水)バンクーバー国際映画祭にて。18:40から。「アキレスと亀」よりすいていたか。日本に行った時もやっていて、そのときは「西の魔女が死んだ」に入ってしまったが、こっちのほうが良かったかも。是枝監督の映画も初めてだった。死を扱っている点で「西の魔女」と似たモチーフがあるが、テーマは異なる。こちらの映画は親子がテーマだ。

 特に何が起こるというわけでもないある家族の、ただし一年の中では特別な日の24時間を中心に描いている。原作者である是枝監督が述べているのだが、この映画は監督の母に対する思いをつづったものだ。ただし、監督がこの映画で楽しく笑いたかったと述べているように、笑いの絶えない、そして終わった後の感じもさっぱりとしたものだ。「人生はいつもちょっとだけ間に合わない。」というセリフが最後のほうに出てくるのだが、それは後悔なのではなく、「人生とはそういうものなのだよね」と確認するもので、前向きだ。

 家族の日常のようでもあるが、子供が成人して独立したあとだから、年に1~2回の帰省の機会という一種の非日常を扱っている。自分の家族、親兄弟との間でありそうなことばかりで、製作者の力量を感じる。そして、そんな中に親子でも他人ということがシリアスにならずに表現されている。親子のコミュニケーションの難しさ、ふとしたことで気づく親の老い、そして子供としての自分と親としての自分、そんなところか。後日談のところで、かなり短い期間で両親が死んだことになってしまっているところは、ちょっと月並みすぎたかなという感想。

 個人的には京浜急行電車と横須賀の海(たぶん)。近くに住んでいたことがあるので、映画のロケが行われた(映像にうつされた地名表示によればそうと思われる)長沢のあたりも行ったことがある。主人公である良多と同じ年代でもあり、個人的な思い入れがあった。外国でこのような映画を見ることができて満足。

(2008年10月14日)

アキレスと亀 Achilles and the Tortoise(2008年) [邦画]

監督:北野 武
出演:ビートたけし(倉持真知寿)、樋口可南子(倉持幸子)、徳永えり(倉持マリ)大森南朋(画商)、柳憂怜(真知寿‐青年時代)、麻生久美子(幸子)、吉岡澪皇(真知寿‐少年時代)、中尾彬(父)、筒井真理子(父の後妻)、大杉漣(叔父)、円城寺あや(叔父の妻)、伊武雅刀(画商)

 日本でも9月20日公開という最新作だ。9月27日(土)バンクーバー国際映画祭での上映。北野武監督の映画は14本目だそうだが、はじめて見た。たくさん人が死んだが、あっさりと様式的に描かれているので(記号化されているといえばいいのか)、怖くはない。ラストにも救いがあり、心地よい余韻がある。最後に「アキレスは亀に追いついた」ということになっているのだが、何がアキレスと亀だったのだろうか。

 以下ストーリーが入ります。

 いろいろな切り口から見ることができると思うが、世の中に認められなくても愚直に生きることが大切だというメッセージが一つ。だが、愚直と入っても、芸術の持つ狂気や非人間性も存分に描いており、真知寿は、全く自己中心的で周囲の人々に迷惑をかけどおしだ。人を死に至らしめることもあるし、他人の不幸、自分の娘の死すら何の罪悪感もなく自分の芸術の題材にしようとする。最大の理解者であった妻(樋口可南子)もついには去っていくが、それでもあきらめるということがない。しかしだからといって、芸術の世界では何も起こらない。

 最後には、真知寿は、あきらめようとしたのだと思う。自殺しようとしたが死ねなかった。そして、何もかも失ってしまったのかと思ったら、妻が帰ってくる。それで、アキレスは亀に追いついた、というのだが、この辺はちょっとわかりにくい。最大の理解者である幸子がいることの幸せに気づいた、ということかもしれないが、「気づいた」という描写はない。むしろ、愚直にやっていればそのうち誰か理解してくれるさ、という感じだ。ラストのところは意外にも予定調和的になっていて、心地はいいが、都合が良すぎる、無責任だという気もする。

 重いテーマを扱いながら全体に明るさを感じさせるのは、寓話的でリアルさがないことと、笑いのせいだ。樋口可南子の演技もすばらしい。騙されたっていいじゃない、有名になれなくたっていいじゃない、殴られたって、新聞沙汰になったって、そんなもの笑い飛ばしてしまえと。ちょっと「元気が出るテレビ」が入っている。ただ、このリアリティのなさは曲者かもしれない。ほんとうにあれだけのことが起きたら、大変な人生あるいは他人を不幸にする人生だ。警察沙汰にもなり、大怪我もしたが、ちゃんと世界の北野武になったじゃないということかもしれないが、世の中そんなにやさしくないかもよ、という警戒はしておきたい気がする。このような映画に拍手喝采していたら、その先には何もないかもしれない。

 まあ、いずれにしても、立て続けに映画館で日本の映画を観ることができて、大変満足な一週間だった。

(2008年9月30日)

武士の一分 Love and Honor (2006年) [邦画]

監督:山田洋次
出演:木村拓哉(三村新之丞)、壇れい(三村加世)、笹野高史(徳平)、坂東三津五郎(島田藤弥)

 9月23日、バンクーバーのFestival Cinemas(Ridge)で夜9時半からの上映を観た。よく練られた構成で、最後にほっとさせてもらえたところもよい。英語のタイトルがこの映画の主題をすっきりと語ってくれているということに観終わってから気づいた。

 武士の一分とは、武士が命をかけても守らなければならないものであり、すなわち名(名誉)だ。この物語でもそれぞれの武士がその一分のために命をかけた。だが、この物語の主人公である三村新之丞は、武士の一分も守らなければならなかったが、同時に妻への愛情も捨てなかった。つまり武士の名誉と妻への愛の葛藤の物語であり、武士の一分ではなく「男の一分」「女の一分」でもおかしくない。だから、この映画のテーマはそのまま現代に通じるものであるともいえる。本物の武士の世界であれば、武士の一分のほうが優先されこのようなストーリーはありえなかったかもしれないから、むしろ非常に現代的なテーマを扱っているともいえるか。

 現代にあてはめれば、人はいちいちその一分を守るために死ぬことはないかもしれない。しかし、この映画は、そもそも人が生きることの意味も問うているようにも思われた。この映画では武士の名誉が価値の基準となっているが、名誉でなくてもそれぞれの人は自分の人生をかけて守るべきものがあるのではないか。映画公開時の宣伝文句もそんな感じだったらしい。映画では、最後のほうで、キムタクに「自分は間違っていた。妻を疑ったりしなければこのようなことにならなかった。知らなければよかったのだ。」という趣旨のことを言わせるのだが、「そうだろうか。それで生きている価値はあるのだろうか。」と思わせられた。キムタクの上役である小林稔侍や敵役の坂東三津五郎の潔い自裁を見せた上でそういわせるあたり、製作者は意図的にやったのかなという気がしないでもない。

 インターネット上の評価を見てみると、妻を寝取られた男の単なるうらみつらみじゃないか、とか、盲目なのに剣術の達人にいとも簡単に勝たせてしまって安易、といった厳しい感想を持った人もけっこういるようだ。しかし、最終的にキムタクが坂東三津五郎をやっつけてしまったから結果論からはそうなのだが、10回勝負して1回勝てるかどうかみたいな勝負だったと考えれば、返り討ちに遭うことを覚悟の上で果し合いを申し込んだのであって、結果は偶々だったとみるべきだろう。返り討ちにあってしまったというストーリーだって、面白くはないが全く不自然ではない。確かに騙された妻のための復讐という要素もあるが、妻を寝取られた武士の一分を守るという方が重要だと思う。ストーリー上も、剣の師匠(緒方拳)に対して「武士の一分ということ以外に事情は聞かないで欲しい」と言ったというエピソードの方が、妻が騙されていたことが判明するより前に置かれている。騙された妻のための復讐という要素は、物語をドラマチックにする効果があったことは確かだが、愛の要素のほうを強調しすぎてしまう結果にもなっており、善し悪しのところがあるように思う。

 こういった主題を取り上げた映画はたくさんあるから、よくある陳腐なストーリーといえばそれまでだが、人にとっての永遠の課題について、日本人という味付けをした上で上手くまとめたと評価したい。映画としての完成度は高いし、前を向いて胸を張って生きていこうと思わせてくれる素晴らしい映画だったと思う。

(2008年9月27日)

アフタースクール(2008年) [邦画]

監督:内田けんじ
出演:大泉洋、佐々木蔵之介、堺雅人、常盤貴子、田畑智子

 これは日本とカナダの間の飛行機の中で見た。6月の下旬か7月の上旬で往復どちらだったかは忘れてしまった。

 こういう映画好きだよ。プロットがよく練られていて実に映画らしくて楽しめる。不思議なストーリーに最初から引き込まれて、最後にきれいに収斂するすばらしいエンターテイメントに仕上がっている。面白かったなあ。出演の役者たちもよくできていた。大泉洋の飄々さ、佐々木蔵之介の得体のしれない悪役ぶり、堺雅人のこれもどちらかというと飄々としたところ、どれも役どころを得ていて見事。

 この秋のバンクーバー国際映画祭でも上映されるらしい。

(2008年9月22日)

かまち(2004年) [邦画]

監 督:望月 六郎
原 作:山田 千鶴子「かまちの海」
出 演:
 山田 かまち(谷内 伸也)、木下 みゆき(大沢 あかね)、管野 洋子(姫野 史子、壇 ふみ)

 山田かまちは、群馬県の高崎高校1年に在学中に亡くなったので、わが母校でもある高崎高校が出るかなと思ってみたわけ(山田かまちはちょっと先輩にあたる)。思ったとおり高崎高校でのロケがあってずいぶん懐かしい気持ちにさせてもらった(当時はぼろぼろの木造校舎だったらしいけど)。

 ただ、映画の中身は、ちょっと宣伝に偽りありなところがある。ビデオのパッケージには「今、かまちの人生がはじめてスクリーンに甦る!」とあるのだが、この映画の半分は山田かまちの人生のことではなく、「現代」を描いている。かまちの子供たちの世代が中学生から高校受験をしようという年代にはいった頃を描いているわけだ。あとから思えば凝ったつくりなのだが、さっぱり展開が分からなかったね。

 まあ、いろいろ商業的な理由があったのだろうということは推察される。マーケットを現代に生きる中高生として、主演にかっこいい男の子をもってきて、それで売ろうとしたということだろう。そのため現代の描写を長くせざるを得なかったということではないか。しかし、それは成功していない。かまちを描いているのか、現代を描いているのか、どっちつかずになってしまった。というより、かまちは伝説化というか神格化というかされてしまっていて、かまちに対するつっこみが全くないといっていい。かまちの人生、かまちの悩みについてもっとくらいついていけば、現代の中高生と共通するところが見つかったのではないだろうか。そんなふうに料理してほしかったと思った。人を神格化するのは、死者であってもやめた方がいい。ちょっとテクに走り過ぎましたねえという感じで残念だ。

(2008年1月30日)

憑神(2007年) [邦画]

監督:降旗 康男
原作:浅田 次郎
出演:妻夫木 聡、西田 敏行、赤井 英和、香川 照之、森迫 永依

「つきがみ」と読む。これまた7月13日の飛行機。

 主題はずばり生きることの意義だ。妻夫木演じる若い武士が、死を受け入れながら、生きることの意味を探す。そして生きていることの意味を見つけたといって死んでいくんだな。死を眼前につきつけられて初めて生きることの意義がわかるということだろう。

 ただねえ・・・、どうもしっくりこなかった。のっけのところは溝口健二監督の「雨月物語」を思わせ、また、西田敏行や香川照之ががんばっていて(香川さんは最後まで出てきます)、さあどうなるかどうなるかと期待して観たのだけど、「え、これで終わり?」という感じ。最初に期待感が高まっただけに、最後のがっかり感はかなりのもの。死神というコンセプトはいいのだが、うまくこなし切れていない感じ。本来の力が出し切れませんでしたねえ、といったところだ。

 ラストに原作者の浅田次郎が出てきたがまったく意味不明。いらなかったと思うけどなあ。彼のキャラクタもあいまって・・、ちょっとねえ。

(2007年8月30日)

美女はつらいよ(2006年) [洋画]

監督:キム・ヨンファ
出演:キム・アジュン(ハンナ)、チュ・ジンモ(サンジュン)

 原作は鈴木由美子という人の「カンナさん大成功です!」というコミックとのこと。また、インターネットでみたところ、原題の韓国語は「美女はつらいの」と訳されるとの説あり。これまた7月13日に飛行機の中で見たもの。

 コメディーなのだが、ほろりとさせられるところもありで、面白い。登場人物のキャラクタにゆれがあるところが気になるといえば気になるが、日本の(長期)連載コミックにはよくある話。

 ストーリーは原作とは少し違うらしいが(原作を読んでいないのだが)、モチーフが良いと思う。そこに、主人公のハンナを演じたキム・アジュン(ほぼ新人)がうまくはまっている。美人でスタイル抜群なのだが、もともとはコンプレックスで一杯だった「太ったハンナ」だったということがうまく出ている。演出がうまいのか。その辺はよくわからない。

 でも、やっぱりキム・アジュンがうまくはまったということに尽きるのではないかなあ。とってもいい。

 韓国では美容整形が非常によく行われているそうで、それもあってか、韓国では大ヒットしたようだ。

(2007年8月29日)

ホリデイ(2006年) [洋画]

監督:ナンシー・メイヤーズ
出演:キャメロン・ディアス、ケイト・ウィンスレット、ジュード・ロウ、ジャック・ブラック

 飛行機の中で見たものを巻き戻して記録。4月20日だったかと。

 月並みだが、良くも悪くも王道を行っている映画ということか。自分の気持ちに正直になるということ、人に振り回されず自分の道を行くということ、そこには必ず同志がいるということか。そのへんはやっぱりアメリカ映画的なにおいがぷんぷんするけれども、それが大事なのではないか。思い切り生きて、思い切りぶつかって、そこから何かを見出して、かつ、世の中がよくなっていくということではないかと。----日本では、最近でもよく日本経済の「復活」というような言い方がされるけれども、そこには、かつては完成された世界があり、そこに「戻る」という暗示がある。どこかに予定調和的な完璧な世界があるという発想になっているが、それでいいのだろうか。

 いずれにせよ、気持ちよく見られる映画。

 出演も、昨今そろえられる役者で最高のものを並べたというところだと思う。そして、それぞれがいい持ち味を出している。ジュード・ロウは映画で見るのは初めてだったが、写真より動かしてしゃべらせたほうがよいね。動いたほうが静止画よりもかっこよくて、また、声が写真から想像されるよりも低音で、ブリティッシュアクセントがよくはまっていた(あたりまえだが)。ジャック・ブラックはこれからどうなっていくかが楽しみ。

 アメリカ西海岸的ギンギラギン生活と、イギリスの郊外での質素な生活(しかも冬)が対比的になっている。製作者の意図とは関係ないだろうが、ジュードロウとイギリス生活というのがどうも懐かしい感じがした(わびさびな感じ)。これに対して、西海岸的陽気さには、心温まる挿話もちゃんと入っているのだが、少々うっとうしい感じ。上に述べた「思いっきり生きて・・・」というのとは若干矛盾するような気もしないでもないが。その辺は、またあとで。

(2007年8月26日)

300 <スリーハンドレッド>(2007年) [洋画]

監督:ザック・スナイダー
出演:ジェラルド・バトラー(レオニダス王)、レナ・ヘディ(王妃)、ロドリゴ・サントロ(クセルクセス大王)、デイビッド・ウェナム(ディオリス)

 7月13日、飛行機の中で観た。ペルシア戦争における「テルモピレーの戦い」を題材にしたものだそうで、一説には、この戦いにおいて「300人」のスパルタ軍が、100万ともいうペルシアの大軍を相手に3日間持ちこたえた事実は歴史を変えたのだそうだ(あくまで一説ね)。そういう認識の下この映画が作られたという解説をどこかで見たような気がする。

 映像はいい。とてもいい。クセルクセス王もいい(俳優さんもいい)。スパルタ戦士もかっこいい。

 ただ、問題は話の作り方だね。(以下ストーリーが入ります)
 
 負ける、しかも玉砕するとわかっているのに、なぜ戦ったのか。人間の自由や尊厳を守るためには、時には血を流す必要があるのだ、というのが、この映画におけるレオニダス王とか王妃の答えになっている。そこでアメリカ人なら拍手なんだろうけど、あまりにアメリカ人的すぎない?というのが正直な感想。それから、自慢の息子を連れてきた隊長がその息子が殺されて錯乱するところは、「他にも息子がいるから死んでもいいのだ」と最初に言ってたじゃん、とつっこみたくなるよねえ。なんとなく、アメリカの現政権擁護的な感じがして、むむむな感じがぬぐえず・・・。それでいいのだ、という意見はあると思うけど(それにアメリカ映画だし)。

 最近ちょっとひねくれ気味。

(2007年8月21日)

硫黄島からの手紙(2006年) [洋画]

監督:クリント・イーストウッド
製作:スティーブン・スピルバーグ
出演:渡辺謙(栗林忠道中将)、二宮和也(西郷)、伊原剛志(西中佐)、加瀬亮(清水)、松崎悠希(野崎)、中村獅童(伊藤中尉)
上映時間 141分

 12月17日、渋谷ピカデリーで19:25の最終回で見てきました。ほとんど満席だったのではないかな。

 今話題の硫黄島二部作の二本目。硫黄島の戦いを、今度は日本側から見たものだ。ただ、日本側の人たちはほとんどが戦死してしまったから、実際どうだったのかということはよくわからない。この映画で描かれている人々についても、栗林中将や西中佐は実在の人物だが、硫黄島で実際にどのようにしていたのかについては、想像するしかない。(だから、エンドロールの最後に、「これは実話です」といいつつ、「会話などは脚色してある」という趣旨のことが出ていたよ)

 そうしたところからすると、ちょっと西中佐(バロン西)がかっこよすぎたかね。有名人ということかな。また、残念なのは、有名な決別電報を全部しゃべらなかったところだ。

 皆死んでしまったわけだから、現在と当時を行き来することもできず、第一作のような息もつかせないようなところはない。それがまた淡々としてよかったかもしれない。本で読んだ硫黄島はもっと悲惨だった。たとえば津本陽ね。だから、ちょっと期待が大きすぎたかな、まあこんなもんかなという感想。

 しかし、よくいわれているように、これをアメリカ人が作ったとは。ほとんど日本語だったよ。

(2006年12月18日)

父親たちの星条旗(2006年) [洋画]

監督:クリント・イーストウッド
製作:スティーブン・スピルバーグ
出演:ライアン・フィリップ、ジェシー・ブラッドフォード、アダム・ビーチ

 11月5日(日)。三連休の最終日に渋谷で観てきた。

 パンフレットにいわく「世界が忘れてはいけない島がある」。クリント・イーストウッドが作った「硫黄島2部作」の一本目。インターネット情報によると、あの有名な擂鉢山に星条旗を掲げた6名のうちの1人ジョン・ブラッドリーの息子ジェイムズ・ブラッドリー作の「硫黄島の星条旗」が原作となっているとのこと。

 硫黄島の戦闘、戦闘後に戦時国債キャンペーンに使われる兵士から戦後まもなく、そして現代において(ジェイムズ・ブラッドリーが)硫黄島で父とともに戦った元兵士から硫黄島のことを聞くシーンの3つの時間が、順次映し出される。凝ったつくりになっていて、2時間以上の大作であることを全く感じさせず、飽きない。突然、戦闘シーンに移ることが、兵士たちの心の傷を表現しているのだろう。

 硫黄島のシーンの最後は、擂鉢山に星条旗を掲げた兵士たちが、褒美として、海(戦闘中の)で泳ぐことを許されるシーンになる。海ではしゃぐ若者の姿がとても印象的だ。

 戦争を描いているのだが、タイトルは「父親たちの」となっている。ジョン・ブラッドリーは何も話さずに死んでしまったということが最後のほうにわかってくる。語らなかった父親たちの若い日々を探すということか。なぜ父親が語らなかったのかはわからない。しかし、父親と息子との関係はそういうものだという気がする。洋の東西を問わず。自分がそうだし、自分の父親もそうだ。これがこの映画の伏線か。

 あの星条旗が2つ目だったとか知らずに、いきなりこれだけ観たら、何を描いているのかわからんだろうなあ。

(2006年11月5日)

夜のピクニック(2006年) [邦画]

監督:長澤雅彦
出演:多部未華子(甲田貴子)、石田卓也(西脇融)、郭智博(戸田忍)、西原亜希(遊佐美和子)、貫地谷しほり(後藤梨香)
原作:恩田陸

 新作映画です。9月30日初日に渋谷ピカデリーで観てきた。最終回に行ったのだがガラガラだったぞ。皆さん「涙そうそう」にいっちゃったかな。

 題名は夜のピクニックだが、実際は夜だけではなくて朝から24時間かけて80kmを歩く(途中走る)という、高校の行事(「歩行祭」)を題材としている。24時間を一緒に過ごす中で、高校生が成長していく。彼らは実にあっという間に成長するのだ。なんとなく「スタンド・バイ・ミー」を連想させる。

 「人生とは、バックミラーを見ながらクルマを走らせているようなもんだ。」ということを、人に聞いたか、もしかしたら自分で考えたか、定かではないが、実際のところ、これは真実なのだ。

 未来のことは、5秒後のことであっても実はわからない。普通は何も変わったことは起こらないから、次の5秒後も何も起こらないような気がするが、実はそうではない。大地震が起きて家につぶされて死ぬかもしれないし、北朝鮮からミサイルが飛んでくるかもしれないし、もしかしたら原因もわからず心臓が止まるかもしれない。

 この映画に出てくる戸田忍がこのような感覚に近いことを言う。一つは、高校生たちが川の土手にずらりと並んで休憩しているときに、たしか「こんなに時間がよく見えるのはめったに無い」という趣旨のことを言う。自分の後ろを歩いているのが過去、前を歩いているのが未来、ということ。もう一つは、夜が明けた頃、足を捻挫して歩けない西脇の隣に座って、「この場所で、この景色を、このようにして見ることはもうないのだろうな」ということを言う。

 そういえば、自分が高校生のとき、部活の夏合宿で山に登ったことがあり、帰りに信越線の碓氷峠あたりで(今は廃線だよ)、過ぎていく景色を見ながら似たようなことを感じた。確かにあの時間、自分はあそこにいた。20数年後、自分はここにいるが、あの自分と今の自分は同じなのだろうか。

 さりげないところで、最後の英語の挿入歌が良かった。もう英語忘れてしまったが、「私が一番そばにいたい人はあなただ」ということを繰り返し歌っていた(やっぱり「スタンド・バイ・ミー」だ)。よくある歌詞だとは思うけど、シーンにあっていてよろしかった。あそこで字幕を出してしまうと興ざめかもしれないが。

(2006年10月3日)

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